琵琶湖/鮎

アユ(鮎、香魚、年魚、Plecoglossus altivelis altivelis )は、サケ目・アユ科に分類される魚。川と海を回遊する魚で、日本では代表的な川釣りの対象魚であり、重要な食用魚でもある。地方公共団体を象徴する魚として指定する自治体も多い。稚魚期を降海し過ごすアユ( Plecoglossus altivelis altivelis )は、琵琶湖産コアユと区別するため、海産アユとも呼ばれる。 かつてはキュウリウオ科として分類されていたが、Nelson(1994)は一種のみでアユ科・アユ属とする分類を提唱しており、統一見解は見出されていない

養殖
アユは高級食材とされ内水面で養殖される魚種としてはウナギに次ぐ生産高があり、食用とする為の成魚の養殖と、遊漁目的の放流用種苗稚魚の養殖とが日本各地で行われている。一部では完全養殖も行われるが、主力は天然の稚魚を3月から4月に捕獲し淡水で育成する方法が取られ、「河口付近の川で採捕した河川産稚アユ」「河口付近の海洋回遊中に採捕した海産稚アユ」「湖や湖に注ぐ河口で採捕した湖産稚アユ(コアユ)」が種苗として供給される。完全養殖の場合、一時海水中で飼育することもあり、餌はシオミズツボワムシなどのワムシ類、アルテミア幼生、ミジンコなどが使用される。

養殖の始まりは諸説あるが、実験は石川千代松らにより1904年より琵琶湖で行われたのが最初とされている。1960年代になると遊漁種苗の育成が盛んに行われるようになる。当初は琵琶湖産アユを養殖種苗として利用していたが、海産の稚魚も1929年中野宗治の研究により利用が始まった。最盛期の1988年には13600トン余り生産されたが、2001年に8,100トン、2005年には5800トン程度まで減少している[14]。

漁業権のある河川では漁協により10-15cm程度の稚魚放流が毎年4〜5月頃に行われる。

飼育適温は15〜25℃、養殖用の生け簀(池)は長方形、円形など様々な形状がある。かつて餌は魚の練餌が使用されたが、現在では魚粉や魚すり身を主成分とした固形配合飼料が与えられる。アユは短期間に成長させる必要があるため、常に飽食量に近い量を給餌える事から、残った餌により養殖池の水質が悪化し、感染症が発生し易くなる。また生育密度が高いと共食いが発生しやすく、感染症対策と共に密度管理は重要である。

21世紀初頭には流水池での養殖池や、配合飼料にクロレラを添加するなど、養殖方法にも工夫が加えられており、成魚養殖では天然物に近づける努力がなされている。また、電照飼育により性的成熟を遅らせ、「越年アユ」として販売される場合もある。

主な生産地、滋賀県、徳島県、和歌山県、愛知県、静岡県
天然物と養殖物の違いとしては以下のようなものがある。

特有の香り
養殖魚にはない。
ひれ(鰭)や体色
天然物のひれは黄色みが強い。脂びれも橙色に近い黄色。えらぶた(鰓蓋)も黄色。頭部後ろにある追星と呼ばれる黄色紋も縄張りを持つと黄色がはっきりしてくる。対して養殖は全体的に黒く黄色の部分はあまり目立たない。これは縄張りを持たないという養殖環境によるものと思われる。体色はかなり保護色的で養殖物は背が黒いものが多く、養殖物でも友釣りのオトリとして川を泳がせると、数時間も経つと川底の色に応じて変色してくるのはアユ釣り師ならよく経験するところである。砂が多い川では銀色が強くなる。
脂肪
天然物は後頭部に脂肪分がほとんど無いが、養殖物には脂肪が多く外観的に盛り上がっている場合もある。この脂肪分は動物性の餌によるもので、天然物は主に藻類を食べるため脂肪が付きにくい。しかし、環境等による運動量も影響しており、緩やかな流れにいるものよりも荒瀬にいるものがスマートであり、25cmを超えるような大型になるとでっぷりと脂がのってくる。
飼育
アユの観賞魚用としての飼育自体は稀である[要出典]が、コアユ(陸封型)であれば可能である。また、遡上型のアユも稚アユの時期より育てれば可能である。高水温に弱いため夏場の温度管理が重要である。食性は主に植物性であるが、コアユの場合は動物性がより強いので、稀に動物プランクトンも食べる。また、観賞魚として水槽内で飼育した場合は成熟までに至らないケースが多い為、1年から3年は生きる。

琵琶湖が形成された時期は、約400万年〜600万年前で、現在の三重県伊賀市平田に地殻変動によってできた構造湖であった(大山田湖)。このため伊賀地方は土質が農業に不適で、生計を立てるための特殊技能集団がやがて忍者を発生させた。湖は次第に北へ移動し、比良山系によって止められる形で現在の琵琶湖の位置に至ったという。大山田湖以前、現在の琵琶湖の位置には山(古琵琶湖山脈)があり、鈴鹿山脈は未だ隆起せず、今日の琵琶湖東南部の河川は伊勢湾へ流れていた。それを裏付けるように、鈴鹿山脈の主要な地質は礫岩である。また、琵琶湖に流入する最大の川で、東南に位置する野洲川は、当時西方ではなく、東方へ流れていたという。なお、琵琶湖は世界の湖の中でも、バイカル湖やタンガニーカ湖に次いで成立が古い古代湖であると目されている。

縄文時代や弥生時代から交通路としても利用され、丸木舟なども出土している。古代には、都から近い淡水の海として近淡海(ちかつあわうみ、単に淡海とも。古事記では「淡海の湖」(あふみのうみ)と記載)と呼ばれた。近淡海に対し、都から遠い淡水の海として浜名湖が遠淡海(とおつあわうみ)と呼ばれ、それぞれが「近江国(おうみのくに、現在の滋賀県)」と遠江国(とおとうみのくに、現在の静岡県西部)の語源になった。別名の鳰海(におのうみ)は、近江国の歌枕である。

天智天皇により、一時は琵琶湖西岸に大津宮が置かれた。測量技術が発達し湖の形が琵琶に似ていることが判った江戸時代中期以降、琵琶湖という名称が定着した。

琵琶湖は、若狭湾沿岸からの年貢の輸送路としても利用されており、湖上で賊に襲撃された記録なども残されている。湖西には、大津から若狭国へ向かう西近江路や若狭街道、京都から琵琶湖などを経て今庄から北陸道につながる[3]北国街道などの各種交通路が整備された。湖上交通による荷物の輸送も行われており、大津や堅田などは港湾都市として発達した。

安土桃山時代には、豊臣秀吉は大津の船持に大津百艘船を整備し、観音寺の船奉行の支配下に置かれ、特権を与えられて保護された。近世になると、大津は松原や米原など他の港と対立し、江戸時代には松原・米原・長浜が「彦根三湊」として井伊氏の保護を受けた。

琵琶湖が淀川となって大阪湾に流れる位置から、若狭湾で陸揚げされた物資が琵琶湖上の水運を介して京都や大坂に輸送された。こうした輸送は明治以降もしばらく隆盛であったが、陸上交通の発達によって次第に斜陽となった。一方、高度経済成長期には琵琶湖から運河を掘削して日本海や太平洋・瀬戸内海を結ぶ運河構想が持ち上がった。当初は、琵琶湖から日本海と瀬戸内海を結ぶ阪敦運河構想を福井県知事の北栄造が調整し始めたが、特に四日市市長の平田佐矩が熱心だったこともあり、福井県・滋賀県・岐阜県・愛知県・三重県および名古屋市・敦賀市・四日市市の間で、総工費2500億円〜3500億円をかけ若狭湾〜琵琶湖〜伊勢湾を結ぶ中部横断運河の建設期成同盟が結成され、自民党副総裁の大野伴睦が会長に就任した。しかし、大野や平田が相次いで死去したことや、北および敦賀市長の畑守が相次いで落選するなど推進の中心人物を失い、1970年には中部圏開発整備本部が調査の打ち切りを発表した。)。

1890年(明治23年) - 京都市へ水を供給する琵琶湖疏水開通。
1950年(昭和25年)7月24日 - 琵琶湖国定公園が指定される。
1964年(昭和39年)9月28日 - 琵琶湖大橋が開通。
1974年(昭和49年)9月26日 - 近江大橋が開通。
1980年(昭和55年) - 琵琶湖条例(滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例)が制定される。
1985年(昭和60年)12月 - 湖沼法における指定湖沼に指定される。
1993年(平成5年) - ラムサール条約登録湿地に認定される。
2003年(平成15年) - 琵琶湖のレジャー利用適正化条例が施行される。

琵琶湖
琵琶湖(びわこ)
琵琶湖(びわこ)

 琵琶湖(びわこ)
 琵琶湖(びわこ)
 琵琶湖(びわこ)
琵琶湖(びわこ)