琵琶湖の歴史

琵琶湖が形成された時期は、約400万年〜600万年前で、現在の三重県伊賀市平田に地殻変動によってできた構造湖であった(大山田湖)。このため伊賀地方は土質が農業に不適で、生計を立てるための特殊技能集団がやがて忍者を発生させた。湖は次第に北へ移動し、比良山系によって止められる形で現在の琵琶湖の位置に至ったという。大山田湖以前、現在の琵琶湖の位置には山(古琵琶湖山脈)があり、鈴鹿山脈は未だ隆起せず、今日の琵琶湖東南部の河川は伊勢湾へ流れていた。それを裏付けるように、鈴鹿山脈の主要な地質は礫岩である。また、琵琶湖に流入する最大の川で、東南に位置する野洲川は、当時西方ではなく、東方へ流れていたという。なお、琵琶湖は世界の湖の中でも、バイカル湖やタンガニーカ湖に次いで成立が古い古代湖であると目されている。

縄文時代や弥生時代から交通路としても利用され、丸木舟なども出土している。古代には、都から近い淡水の海として近淡海(ちかつあわうみ、単に淡海とも。古事記では「淡海の湖」(あふみのうみ)と記載)と呼ばれた。近淡海に対し、都から遠い淡水の海として浜名湖が遠淡海(とおつあわうみ)と呼ばれ、それぞれが「近江国(おうみのくに、現在の滋賀県)」と遠江国(とおとうみのくに、現在の静岡県西部)の語源になった。別名の鳰海(におのうみ)は、近江国の歌枕である。

天智天皇により、一時は琵琶湖西岸に大津宮が置かれた。測量技術が発達し湖の形が琵琶に似ていることが判った江戸時代中期以降、琵琶湖という名称が定着した。

琵琶湖は、若狭湾沿岸からの年貢の輸送路としても利用されており、湖上で賊に襲撃された記録なども残されている。湖西には、大津から若狭国へ向かう西近江路や若狭街道、京都から琵琶湖などを経て今庄から北陸道につながる[3]北国街道などの各種交通路が整備された。湖上交通による荷物の輸送も行われており、大津や堅田などは港湾都市として発達した。

安土桃山時代には、豊臣秀吉は大津の船持に大津百艘船を整備し、観音寺の船奉行の支配下に置かれ、特権を与えられて保護された。近世になると、大津は松原や米原など他の港と対立し、江戸時代には松原・米原・長浜が「彦根三湊」として井伊氏の保護を受けた。

琵琶湖が淀川となって大阪湾に流れる位置から、若狭湾で陸揚げされた物資が琵琶湖上の水運を介して京都や大坂に輸送された。こうした輸送は明治以降もしばらく隆盛であったが、陸上交通の発達によって次第に斜陽となった。一方、高度経済成長期には琵琶湖から運河を掘削して日本海や太平洋・瀬戸内海を結ぶ運河構想が持ち上がった。当初は、琵琶湖から日本海と瀬戸内海を結ぶ阪敦運河構想を福井県知事の北栄造が調整し始めたが、特に四日市市長の平田佐矩が熱心だったこともあり、福井県・滋賀県・岐阜県・愛知県・三重県および名古屋市・敦賀市・四日市市の間で、総工費2500億円〜3500億円をかけ若狭湾〜琵琶湖〜伊勢湾を結ぶ中部横断運河の建設期成同盟が結成され、自民党副総裁の大野伴睦が会長に就任した。しかし、大野や平田が相次いで死去したことや、北および敦賀市長の畑守が相次いで落選するなど推進の中心人物を失い、1970年には中部圏開発整備本部が調査の打ち切りを発表した。)。

1890年(明治23年) - 京都市へ水を供給する琵琶湖疏水開通。
1950年(昭和25年)7月24日 - 琵琶湖国定公園が指定される。
1964年(昭和39年)9月28日 - 琵琶湖大橋が開通。
1974年(昭和49年)9月26日 - 近江大橋が開通。
1980年(昭和55年) - 琵琶湖条例(滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例)が制定される。
1985年(昭和60年)12月 - 湖沼法における指定湖沼に指定される。
1993年(平成5年) - ラムサール条約登録湿地に認定される。
2003年(平成15年) - 琵琶湖のレジャー利用適正化条例が施行される。


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琵琶湖(びわこ)
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